愛がなくても喰ってゆけます。

「あのね、あたし仕事する時と寝てるとき以外はほぼ四六時中食い物の事を考えて生きてんのね。
てゆーか、仕事によっては仕事してる時も食い物の事を考えてんのね。
あたしがこんだけ食い物に人生を捧げてきたんだから、食い物の方だってあたしに少しは何かを返してくれたっていいと思うの。」
あははははははは!!
これは、よしながふみさんのコミック「愛がなくても喰ってゆけます」の中で、主人公(多分ご本人がモデル)が「ねえねえ、どうしたらそんなにいろいろおいしいお店を見つけられるのー?」と質問されて答えた台詞。
爆笑したあと、どっかで自分の頭の中を読まれてるのかと思いました(笑)
この本はまんがという形をとっているけれど(実際、内容はフィクションだとしているけど)よしながふみさんが実際に食べてみておいしいと思った実在の店をエッセイ風に紹介しているもの。
確かに「食い物に人生捧げてる」人じゃなくちゃ描けないよ、こんなまんが。
西洋骨董洋菓子店」というまんがでも、(ドラマにもなりましたね)異様にケーキの描写がこまかくて、本編と関係ないとこでお菓子用語がばんばん出てきて、「漫画家以外にパティシェでもやってんのだろーか、よしながふみ・・・」と思ったくらいだったけど、やっぱりねー、食いしんぼうだったんだなー、このひと。
あたしも食いしんぼうだし、稼ぎに対するエンゲル係数もほんとに高いと思うし、「食い物に人生捧げてる」人の端っこには間違いなく居ると思うんだけど、確かに「あれが食べたいなー」「あそこのあれがおいしいんだ。大好きだー!」と言ってると、「ねえねえ、どうしたらそんなにいろいろおいしいお店を見つけられるのー?」と聞かれることはよくあります。
「食い物の方だってあたしに少しは何かを返してくれたっていいと思うの」とは思ったことなかったけど、これだけ食べ物のことを四六時中考えてて、お金も時間も半端なく使ってて(自分の中では)、おいしいものを知らなかったり、見つけられなかったり、作ることができなかったりしたらその方が問題だってば、と思ったことはあります。
おいしい店は見れば勘でわかる、とか、食べればある程度再現できるとか、レシピ見れば写真なくても出来上がりの様子と味はわかるとか、それくらいのことが出来るくらいには何よりも「好き」なことには自信ある。
(あ、それがよしながふみの言う「食い物が返してくれるもの」か・・・)
でも、それは蘊蓄語りたい訳でも、グルメに詳しい人になりたい訳でもなく、あたしが「・・・おいしい!!」と思うものがそこにあったから、なんだけど。
「自分はこれがおいしいと思う」
「自分はこれが好きだ」ということがクリアなひとの作る「おいしいもの」は、自分と好みが合えばという条件付きではありますが、もう「これを作ってくれて、ありがとう!」と抱きしめて言いたいくらいの衝動にかられます。(あ、これは本でも音楽でも同じです。あたしにとって。)
だってね、作った人は「それが好きで、なおかつそれをパーフェクトに作る技術があって、その上それを不特定多数に食べさせる」ということを選択してくれた訳だから。そうでなければ、あたしの口にそれが入ることはなかった訳なので。
あー久々に爆笑しながら本読みました。おもしろかった。
今度東京行ったら、ピエール・マルコリー二と北島亭は行ってみよう。
「どのガイドブックにも最大級に腹を空かせてゆけと書かれている店」で*1「塩が効いてる、でも濃すぎない」という北島亭のフレンチ、食べてみたいな。
そうそう、よしながふみさんのまんがは、もともと福田里香さんの雑誌の連載で知ったんでした。

*1:1ポーションの量が多いから